村騒動 大正期 (大和町史p434~436)
Ⅵ郡制の廃止と町村自治の進展
大正十二年、郡制が廃止された。これまで郡が行なっていた諸事業は、府県か、または町村に移され、県は単なる行政
区画に変わったのである。郡制廃止に至る主要な理由は次の通りであった。
(一)郡の自治体としての活動は、府県または市町村の活動状況にくらべると、これといった見るべきものがない。予算額の
上でこのことを見ても郡費は極めて少額であり、またその事業量の如きも大町村に遠く及ばない。
(二)郡の自治体としての発達がおくれた結果、郡に対する住民の自治観念が稀薄である。
(三)郡は府県、町村の中間団体であり、しかも府県、町村の基礎は固いから、郡を自治体として存せしむべき必要がない。
しかも郡を廃止すれば郡費を減少するから、町村財政の負担が軽減され、従ってその財政活動をより活発にすることがで
きる。
郡制廃止の理由は、だいたい以上のようなものであった。ここでは、大正期を通ずる民衆の力の高まりが、もう無視し
得ないものになったときに、町村をいつまでも単なる府県の下部組織に置くことができなくなり、町村に自治権を与え、
町村を自治体に変えようにする動きが基本になっていることを考えなければならない。普通選挙をかち取った民衆の力
は、町村の自治をも獲得したのである。
大正十五年にはさきの郡制廃止にともなうものとして、地方官官制の全文が改正され、郡長以下の官吏が廃止された。
郡はもう行政区画でもなく、単なる地理的名称となったのである。かくて、町村を県の下部機関とする地方組織は、ここ
に解体し、町村に対する県の監督権は大巾に緩和された。町村は自治体としての歩みを開始する。続いて、町村の自治体
としてのていさいを整えるための諸改正が行なわれた。
大正十五年には地方自治体に於ける普選の実現を制度化するため地方制度の改正が行なわれた。これによると、従来、
町村長の選任は府県知事の認可を必要としたのが、新制度では、町村会の選挙だけで決定出来る様になり、助役、収入役
も同様となった。
町村の自治権については、国家及び府県知事による各種の認可、許可事項が整理され、従来よりは町村の自治権が拡大
された。
Ⅶ自治と擁護
「道平人和」で出発したその後の大和村は、必ずしも文字通りの「大和」の村とはならなかった。村では、村政の複雑
化に応じて、これを処理する有能人として他村の人を村長に迎えた。この輸入村長をめぐって、村長排斥の紛争が起り、
村長排斥の自治派と村長擁護派の対立が、ついに村を二分する争いにまで発展した。こうした粉争が起ってくるのも、村方
長を容易に就任させたり、やめさせたりすることが出来るような村の有力者の強い政治力があったからであった。
だが、紛争の本質は別としてこの争いの中に「自治」を旗じるしとしているものが出ていることは興味深い。この時期の人々の意識の中に「地方自治」が、自分たちの問題として取り上げなければならないほど「自治」の考え方が入りこんできたのである。
1906(明治39)年
・5月、第一・第三村山尋常小学校に高等科設置
・9月、小学校高等科修業年限延長認可申請書に高木村他五ヶ村組合村長代理 保々正一郎の名がある。(東大和市学区教育のあゆみp35)
1923(大正12)年
・2月、村山尋常小学校開校に関する書類には大和村村長宮川鹿之助の名が記されている。(東大和市学校教育のあゆみp39)
・3月1日、衆議院、普通選挙法案を否決
・3月、大和村で村騒動がおこり、職務管掌の状態となった。村長に東京府から派遣される他の村の人を迎えた。村長擁護派と排斥派が対立し、村を二分する争いになった。
・3月3日~10月3日 尾崎源四郎 10月3日~13年1月15日 阿部純二 13年1月16日~13年2月8日 永長啓次郎が職務代理者となる
1924(大正13)年
・2月9日、関田安右衛門村長となる 昭和10年5月9日まで
・3月31日、村山上貯水池完成